今回ご登場いただくのは、オリジナルグッズの製作・販売を手掛けるユー・アンド・アース株式会社のタイオフィスに勤務する竹村大治さんです。30歳を前にふと湧きあがった「海外の会社に行こうか」という思い。そこから軽々と海を越え、現地で営業責任者として働く竹村さんに、これまでのキャリアや40代になって感じる変化について伺いました。
Profile/ 竹村大治さん ユー・アンド・アース(タイランド)株式会社 営業責任者 ※2023年11月現在
平日は「ゴリゴリの営業」、週末はカメラマン。二足のわらじ
ー竹村さんはタイのオフィスで、どのようなお仕事をしていらっしゃるのですか。
弊社はもともとソフトウェア開発で創業した会社ですが、今はECサイトでノベルティ等のオリジナルグッズを製作・販売しています。日本の企業では、中国や台湾の工場に委託して製造したものを日本に輸入して販売することが多いのですが、弊社は自社資本で中国に工場を作り、全て自分たちの管轄でグッズを製造しています。僕はその中で、見積もりの提出から製品化までに渡るお客様対応や、タイの従業員へのデザイン指示をしています。
ー今のお仕事に至るまでのキャリアはどのような感じだったのでしょうか?
キャリアのスタートはフリーターなんです(笑)。地元が埼玉なのですが、10分も電車に乗れば東京に行けるので「上京してやろう」という気持ちもなく、地元の高校を卒業してからは、フリーターをしていました。やりたいこともなく、2年くらいはバイトしてみんなと遊んでという感じで。
ーそこから気持ちが変化するきっかけは何だったのでしょうか。
今思うと10代は遊びたい、20代は働きたい、30代は勉強したい、だったんですね。
若くして結婚した友人がいて、「しっかりしてるな」と思ったんですよね。それで、そろそろ何かやろうかなと思って、2年間カメラの専門学校に行きました。写真が好きということもあったけれど、種目問わずスポーツ観戦がすごく好きで、カメラマンになれば一番前で無料で試合が見られる! と思ったことが理由です。卒業後はカメラの業界で就職することもできたのですが、「自分の撮影した写真が会社のものになってしまうこと」が嫌だなと思い、まずは専門学校の講師に来ていた人の主催する塾に所属しました。その塾に所属すると国立競技場でのサッカーの試合など大きな会場の撮影に入れるということもあって。塾に所属しながらバイトで食いつなぐという生活でした。
でもカメラはとにかくお金がかかるので、半年ほどでバイトをやめて社員としての最初の就職をしました。それが22歳くらいの時ですね。
ーその初めての就職先はどのように選んだのですか。
本当に単純な理由です。土日にある試合の撮影に行くことが僕にとっては大事だったので、その会社は土日が絶対休みと書いてあったので決めました。内容はゴリゴリの営業会社でしたが、当時は資格もないですし、営業職なら経験しておいて損はないかなと思ったこともあります。
ー営業職に苦手意識はお持ちではなかったんですね。
全然なかったですね。怒られながらも営業をしていました。
その会社は何か決まったものを売るわけではなく、営業代行の会社で、当時は飛び込み営業もありました。インターホン越しでは話を聞いてもらえないので、オートロック付きのビルでも、エントランスのロックが空くと入っていきました。
経験談の一つで、10階建てのオフィスビルのそれぞれの階に会社が入っている場合、だいたいの人は10階から回ると言うんです。エレベーターでまず最上階まで行って、一つずつ会社を回りながら降りるんですね。僕もそうしていたんですけど、一度10階で「なんで勝手に入って来てるんだ!」と怒られたことがあって。その会社がビルのオーナーだったので、ビル全体が回れなくなってしまったんです。最上階にはオーナーの会社が入っている場合があるとわかって、10階建てだったら9階から回るということを身につけました。
ーそんな風に怒られることもあって、営業職をやめたいと思うことはありませんでしたか?
なかったですね。やめる人は多かったですけど、僕は抵抗もなくて。若かったからできたのかなとも思います。
稼ぎながらも、「このままでいいのか」という迷い
ー営業代行をしながら写真も続けていらしたんですよね。
続けていました。ただカメラは本当にお金がかかって。レンズなどの機材が高いんですよ。撮影でもらえるのはお小遣い程度で、会社で働いたお金を全てカメラに使うような生活でした。それで辛くなってきて、写真は辞めてしまいました。
ー写真を辞めてからも営業代行の会社にしばらくいたのですか。
カメラをやめて1年後くらいに会社を退職しました。会社の居心地は悪くなかったのですが、当時28歳くらいになっていて。そのくらいの年齢って「このままでいいのかな」と迷う時期でもありますよね。それで会社を辞めて、今の会社に移るまで10ヶ月ほど、フリーランスの営業をしていました。
ーフリーランスで営業というと、商材の区別なく、いろんなものを売っていらしたのですか?
商材は自分で選べるので、売りやすいものを売っていましたね。例えば、自販機は一定のスペースと電源さえ確保できれば基本的にどこにでも置くことができます。だから他の商材を売りながらも、自販機の営業は常にしていました。効率よくいろんなもの売るために、名刺を使い分けて、ちょっとスペースがあるなと思ったら、「自販機を置きませんか?」と。
ーそこから現在の会社に入るきっかけは何だったのでしょうか。
フリーランスの営業では、順調に契約が取れると、2時間回って6万円もらえたことがありました。時給3万円ということになりますよね。これはこれでいいかもしれないけれど、若い時代にこんな感じで調子に乗っていったらダメになってしまうという思いもあったんです。組織に入って、まだまだ勉強しなきゃいけないんじゃないかなと思いました。
それで就職先を探していたとき、海外旅行の経験もあったからか、「別に日本で働かなくてもいいのかな」という考えがふと湧いてきました。そんな時に、バンコクで事業をしていた弊社の社長のブログをたまたま読んだんです。記事の中に「日本人営業募集」と書いてあったのを見て、メールを送りました。社長が日本に来るタイミングで最初に会ったのが2月くらいだったと思うのですが、4月にはもうタイにいましたね。
雨で遅刻は当たり前……日本の常識は通じない
ー2ヶ月で渡航しているなんて、すごい行動力ですね! 海外でもやっていけるという感覚があったのですか。
僕にとっては、川崎に行くのもタイに行くのも同じような感覚なんです。
地元などの場所にこだわる方もいると思いますが、僕は「ここじゃなきゃダメだ」という考えがないんです。どこに行かされても気にならないタイプで、まぁやっていけるのかなと思っていて。
ー実際に働き始めてどうでしたか?
タイに行った当時は、現地のタイ人3人と社長と僕の他に日本人が1人いて。入って1年くらいはシステム開発の営業を社長と2人でしていました。当時は言葉も全く話せなかったし、やっぱり外国の人と働くのは大変で、カルチャーショックはありましたね。
まず、日本での常識的なことは通じません。例えば、タイの人は雨が降ったら遅刻しちゃうんです。僕からするとよくわからないのですが、大真面目に「雨が降っていたから遅刻しました」と。そういった価値観に慣れなきゃいけない。
他にも、仕事がすごく縦割りだったりするんですね。同僚に明らかに困っている人がいても、自分に与えられた以外の仕事はせず、手伝うということがない。
現在は中国の自社工場の管理もしていて、進捗の確認をすると必ず「大丈夫」と言われますが、実は何もやっていないことが納期の直前にわかることも……そのあたりの感覚は日本と違いますよね。
雇用の法律なども違うので、自分の考えをローカライズしていくようにしています。
ーかなりのカルチャーギャップがあったんですね。生活の面では、タイと日本で違いを感じますか。
「東京都バンコク区」という言葉があるくらい、見たことのある飲食店がたくさんあったり日本車が走っていたり、日本語があふれています。なので、生活するぶんには困らないのかなと思っていますね。
ただ、真面目な人や何事も予定通りに進めたいタイプの人は、タイには合わないかもしれないですね。タイに来てみて「好きだ」と思えれば暮らしていけると思いますけど、ダメな人はダメなんですね。
ー竹村さんがタイに合っているというのは、飛び込み営業も苦にならないという点と、根底の部分で共通するものがあるかもしれないですね。
そうかもしれないですね(笑)。
ー竹村さんのキャリアにおいて、やはりタイに来たことは転機でしょうか。
うーん、確かに日本の会社に就職していたら、今とは全く違ったキャリアだったでしょうね。なので、日本ではない場所での仕事を選んだのは、一般的に見ても個人的に見ても、転機と言えそうですね。
本当にあの時なぜ海外の会社に行こうかと思ったのかわからないですが、そう思って行動した結果、今がありますから。そういう意味では確かに転機ですよね。
ー日本への帰国は考えていらっしゃらない?
あまり考えてないですね。帰りたかったら帰りますし、帰ろうと思ったらいつでも帰れますしね。
チャレンジも継承も。40代になったからこそできること
ー今の会社で竹村さんの役割には、タイの従業員のマネジメントも含まれていますか。
含まれているというか、勝手にしています(笑)。一緒に働いているタイ人メンバーは1分1秒でも早く帰りたい人たちなので、マネジメントしないと大変なことになってしまうというところもあって。
ーその辺りのコミュニケーションで大事にしていることはありますか。
マネジメントというと、自分で考えてもらうように促すやり方もあると思うのですが、僕が最近意識しているのは、何か聞かれたら、まず正解を言うことです。その時に自分が100点だと思う回答を伝える。でも時代はどんどん新しくなるし、時代が変われば正解も変わるので、違うと思ったら君たちがどんどん変えていってくださいというスタンスです。僕の回答を2年経っても3年経っても正しいと思うのではなくて、柔軟に変えて欲しいと考えています。
ーそのような考えに至ったのは、40代という年齢も影響しているでしょうか。
あるでしょうね。怒る時は怒らなきゃいけないのですが、嫌ですよね、20代の子が多いオフィスで40歳のおじさんが怒ってたら(笑)。だから基本的には、まず答えを伝える。
あと40代になって、これまで細かく説明してこなかったことに対しても、一つひとつ、細かなディテールまで職場の人たちに伝えようかなと思うようになりました。
ーありふれた言葉で言うと、次の世代につなぎたいというような思いですか?
そうですね。たぶん、今まで経験してきたことを若い彼らに教えてあげたいという思いがあるのだと思います。だから答えを教えるというやり方になったのだと思います。
ーなるほど。ほかに40代という年齢のところで感じるようになったことはありますか。
ありますね。意識しないと、同じようなものを食べちゃうし、同じような映画を見ちゃうし(笑)。40代ってある程度のことを経験してきているので、いろんなことがなんとなくわかってしまうんですよね。
例えばドラゴンフルーツって知っていますか? 見た目がすごくかっこいいフルーツなのですが、味はすごく淡白なんですね。2回は食べたいとは思わない。
これはいろいろなことに言えて、経験からいろんなことがなんとなくわかってしまうようになるんですよね。仕事もそうだし、人付き合いでも「この人はもう付き合わない方がいい」といったことがわかるようになる。
でもそうすると、新しいものに対しても感動がないんですよ。
だからこそ40代は経験に奢らずに、仕事でもプライベートでも、めんどくさいこともやってみようと思ってるんです。ちょっと手間だなとか嫌だなって思うことをやってみたいです。
ーああ、それが、職場で若い人に細かいことまで伝えていこうという姿勢につながっていくのですね。
そうですね。
今後、仕事で月の半分ほど中国出張に行くようになるんです。大変ではありますが、中国語を勉強したり、新しい挑戦をするきっかけになるなと思っていて。いいタイミングで話がきたかなと思っています。
これからも、巡ってきたチャレンジは基本的に受けるようにしていきたいですね。それが自分に回ってくるというのは、自分が行動してきた結果ですから。
ーまだまだご活躍する40代になりそうですね! ちなみに、竹村さんはお休みの日は何をされていますか。
趣味は猫です。家では飼えませんが、地域猫の面倒を見ていて。どこにどういう猫がいるか知っているので、休日はそこに餌をあげに行っています。
もともと猫は好きだったのですが、20代から30代前半は他にも興味のあるものがあって、猫を卒業していたんです。でも、いろんな経験をしてやり尽くしたら、本当に好きなことをはじめるという……。
ー猫に戻って来たのですね(笑)。
はい。バンコクの街で猫に餌をあげている日本人を見つけたら、それは僕かもしれません(笑)。