組織の名脇役にスポットライトを当てるメディア

インタビュー

18年間ともにしたブランドのクローズを経て未知の業界へ転身。好きだからこそ伝え、芯をもって前に進む。

今回ご登場いただくのは、「OSAJI」をはじめとしたコスメブランドやレストランを手がける日東電化工業ヘルスケア事業部の早川歩美さん。前職では大手アパレルブランドに18年勤め、「ブランドを好きになってもらいたい」と販売スタッフ、店長、PR・マーケティングと経験を重ねてきました。そんな早川さんのキャリアを辿ります。

早川歩美さん
日東電化工業株式会社 ヘルスケア事業部 経営企画 兼 マーケティング部GM
※ 2023年8月現在

好きな服を着て、自分を表現しながら売りたい

ー早川さんの最初のキャリアは大手アパレルブランドということですが、どんな経緯で入社されたのでしょうか。

物心ついた時から洋服が大好きで、自分で買ったり、まねごとでデザイン画を描いてみたりしていました。漠然とそういう仕事に就きたいなとは思っていましたが、家系的には「ザ・公務員」なんです。両親からは専門学校よりも大学への進学を勧められ、大学に行くなら全然違うことを学びたいと思って、哲学科に進学をしました。

ちょうど就職氷河期でもあって、就職活動を一生懸命やったかと言われると、そうではなくて。そのまま大学院に進むことを考えたのですが、通っていた大学には私の進みたい課程がなく、他大学の大学院に行かなくてはいけなかったんです。それで珍しいと思うのですが、院浪をしました。

その時に、本当に大学院に行きたいのかを改めて見つめ直す機会があって。やっぱり洋服が大好きだし、洋服に関わる仕事に就きたいと思って、アルバイトを探し始めたのがスタートです。前職の会社は当時、正社員の採用がなかったので、販売スタッフのアルバイトの面接を受けて、そのままするっと入った感じでした(笑)。

ー早川さんが入ったのは、主にバッグや雑貨を販売するブランドでした。洋服のブランドには行かなかったのですね。

洋服のブランドに行ってしまうと、そのブランドの服しか着ることができないと思って。私は好きな服を着て、自分を表現しながら何かを売りたいという意志が強かったのだと思います。

アルバイトで採用されて入ったのが京都の百貨店だったのですが、最初からベレー帽をかぶって出勤したんです。百貨店なので帽子はNGだったみたいで、フロアマネージャーから注意をされたのですが、「これ、個性なんです」みたいなことを言っていましたね。髪もその時から薄い茶色に染めていて(笑)。

販売の経験もありませんでした。ただ、哲学や心理学を大学で学んでいたことが関係するかはわからないですが、人と話す中で気持ちをキャッチできるというか、最初からお客様と仲良くなることができて、割とすんなり売っていました。

たくさんの人に知ってもらうために、勝手にどんどん提案する

ーアルバイトから入って、正社員になられたということですよね。

私の時代のアパレルはすごく厳しくて「こんな厳しい世界、やだな」と思っていました。組織的な序列がすごく強かったんです。ただ、当時の店長に、「一つの仕事をするなら、3年やってみなさい」「極めてから、次のステップに移るならいいんじゃない」とアドバイスを受けたこともあり、もうちょっと頑張ってみようと思いながら、社会人経験を積み始めました。

そんな時に、私の場合は、割と早い段階で発見していただいたというか、入って2〜3ヶ月くらいの時に「社員の枠があるからチャレンジしてみないか」とお話をいただいて、半年くらいで社員に上がりました。正社員採用がすごく少なかったのですが、その中で採用していただきました。

多分、売り上げは良かったと思います。あとは今思うと、物怖じしないというか、たまにしか店舗に来ないスーパーバイザーの方とも、普通に話せていたところを見てもらえたのかなと思います。

ー社員になってからは、どんな気持ちで働いていたのでしょうか?

何十年も前だから、その時の気持ちを克明には覚えていませんが……(笑)たぶん、やれるところまで、やってみよう、という気持ちだったと思いますね。こんなチャンスが人生にはあるんだなと思っていたと思います。

現場では、ディスプレイの担当や、スタッフの教育を経験して、サブ店長へと昇格していくのですが、その頃にはディベロッパーに対して勝手に営業をして売り場を取ってくるようなこともしていました。百貨店は、ポップアップの売り場がありますが、その場所を自分で取ってきて、会社には「この時期にイベントをやって、こんなディスプレイで表現したい」と提案したり。謎の販売員みたいになっていましたね(笑)。会社には「なんだこいつ」って思われていたと思うのですが、小さいお店を作るくらいの勢いで提案していたと思います。

ーすごくアグレッシブな感じですね。

当時は自分がアグレッシブだとは思っていなかったのですが、今振り返ると、もっとたくさんの人にブランドを知ってもらいたくて、「こういうふうに見せたら、もっとブランドの世界観が素敵に見えるはずなのに」という思いがありました。人と比べたことがないのでわからないのですが、ゴールに向かって何かをしたいという意欲が強いのかもしれません。

自分が楽しければ、お客様にも伝わる

ー京都の百貨店からはじまって、名古屋、東京と移ってこられたんですよね。

京都のあとは大阪の店舗に移り、3年目くらいには名古屋で店長になっていたと思います。名古屋は10年くらいだったのですが、店長歴も長くなってきたことで次のゴールが見えなくなって、ちょっと停滞するというか、燻ぶっていたりもしていたんです。そのタイミングで東京に来ないかとお声がけいただいて。

その時点で、年齢が30代半ばぐらいだったので、この年齢で東京に行くのもどうなんだろうとはちょっと思ったんです。でも次に行くところもなかったので、「じゃあ行っちゃおうか」と。

東京に来て最初の頃は、お客様に声をかけても返事をしてくれないとか、コミュニケーションに距離のある方も多くて、その距離の詰め方を迷うというか、様子を伺いながらという感じでした。ただ、仕事をする上で、自分が楽しくしていればお客様にも伝わるし、それでお客様も楽しんでくれたらいいという考えが私の中の根本にあるので、最終的にはコミュニケーションも違和感がなくなっていました。

ー「自分が楽しい」というのは、確かに大事ですね。

自分がご機嫌に仕事をしていたい気持ちはありますね。会社に定期的に提出をしていたミッションシートにも、「ドキドキとワクワクを忘れない」とずっと書いていたんですけど、自分もドキドキしていたいし他人もワクワクさせたいという気持ちが、仕事の根本にあります。

ーその後は店舗から本社に異動されますが、そのきっかけはなんだったのでしょうか。

PR職の社内公募です。そもそも名古屋にいる時にZOZOTOWNのアプリ運営を行っていたのですが、フォロワーが2万人ぐらいになって、露出をすることが割とうまいという評価を受けていました。それでPRに向いてるんじゃないかとずっと言われてはいたんです。

実際担当してみると、手応えが難しかったですね。PRは本当にお客様に届いたのか、最終的な着地点がわかりにくい部分がありました。ただ、そこからマーケティングにも関わって数値やブランディングの部分に寄り添っていくと自分の成果が見えてきて、自信につながっていったと思います。本社に移ってからは、PRの仕事をしながら、自分の職域の幅を広げ、だんだんマーケティングに近づいていく道のりだったかなと思います。

ー販売からスタートして、PR、マーケティングと、広がっていったのですね。

なんでしょうね、誰かに何かを伝えたいという気持ちが強くて、思いに従って動いていたらそうなったという感じです。伝えるというのは、物を売る時もそうですし、マーケティングも伝える部署だったりもするので。

最終的には、商品企画も巻き込んで、ブランドの想いと商品が1つになったプロダクトの開発にも携わりました。確かに巨大な組織だったので、縦組織化していて、横串を刺していくのが難しい部分はありました。でも躊躇するよりも、「みんな、ブランドを好きだし、好きになってもらうために働いてるんでしょ」という意識の方が強かったと思います。

人生をともにしたブランドのクローズを見届け、退職

ー強い思いが早川さんのコアの部分にあったのだと思いますが、会社を退職することになったのはどのような経緯だったのでしょうか。

コロナ禍で、会社が数ブランドをクローズさせることなり、私の担当ブランドも対象に入ってしまったのがきっかけです。対象ブランドのスタッフは全員退職という辞令が出されました。実は、別のブランドのお誘いも受けていたのですが、このタイミングでなければ違う場所に行く踏ん切りがつかないだろうと思って、次の世界に踏み出してみたい気持ちもあり転職の決意をしました。

会社からの辞令は半年くらい前にあり、半年を待たず次が見つかれば退職することもできる状況でしたが、私は18年ずっといたブランドを最後まで見届けたいという思いが強く、次に向かうよりも目の前にいらっしゃるお客様のことを考えておきたくて、会社に残っていました。

ー退職される時にはどんな感覚だったのでしょうか。

終わって最初の数ヶ月はずっと信じられないままでした。人生を共にしたような感覚だったので、寂しい気持ちが強かったですね。ただ、店頭にいた時のお客様と本部に行ってもつながっていて、クローズする時にはみなさんに言葉をかけてもらって、ありがたさも感じました。当時のお客様とは今もつながっています。

予測できない未来を楽しみながら、働き続ける

ー今もつながりがあるのは素敵ですね。そこから転職活動はどんなふうに進めていったのでしょうか。

伝えることを軸にしていたので、マーケティングを中心に、商材にはこだわらずに探していきました。また、退職の1年ほど前からサステナブルな新規事業をローンチしようと動いていたのですが、それが凍結されてしまったので、サステナブルな活動をされている、もしくはしようと思っている会社様とご一緒したいなというのはありました。

日東電化工業は、登録している人材会社にスカウトが来たことが出会ったきっけかです。ただ、名前も聞いたことがないし、最初は「なんだこの会社は」という感覚で(笑)。検索して調べてみると、ヘルスケア事業部のCEOががサステナブルな活動をしていることもあって、「面白いことをやっていそうだな」と、話してみたいと思いました。

ー面接を受けてどんな印象でしたか?

初めての転職活動だったので、面接での答え方などを人材会社の人に指導されていたんです。でも、全くそういうことが通用しない面接でした。職務経歴などはほぼ聞かれませんでした。会った時にまず、「募集のことは置いといて、君は何をしたいの?」と言われたんです。「置くんかい!」と思って(笑)。ただ、どういうことをしたいかを聞かれたのが印象的で、前職で凍結したサステナブルな活動をしたいと伝えました。

あとは、コスメ何使っている?コスメに興味があるの?とか、音楽何聞きます?好きな服は?など。仕事の話はほとんどなかったですし、「化粧品には詳しくないし、興味が強いわけでもない」と答えていました。ただ、今まで販売からマーケティングまでやって来たので、売ることや伝えることが得意なんだろうなというのは面接を通して察してもらったのかなと思いました。今、自分が面談などをする立場で思うのですが、趣味嗜好、テイストや価値観などもコアな部分がが近くないと、お互いにしんどくなると思っている会社なんですよね。

ー18年務めたブランドから日東電化工業に移って、いまどんなことを感じながら仕事をしていますか?

コスメブランド「OSAJI」の販促やマーケティング・PR全般、そして新規事業の立ち上げをはじめ、経営企画として、福利厚生の導入やコーポレートPR、事業部CEOのPRなど幅広く携っています。アライアンスとして佐賀県にある障害者就労支援B型事業所「PICFA(ピクファ)」メンバーの作品が購入できるECサイトも手掛けています。

いろいろやっているんですが、入社してから誰からも「これをやってください」とは言われなかったんです。経営企画室の配属でしたが、経営企画の経験があるわけでもなかったので、自分の経験値がある店舗スタッフの採用など、人手の足りないところから雑多に携わっていきました。

日東電化工業では、化粧品ブランドだけではなく、今年はヘルスケア事業部で創業よりメインの事業であるメッキの技術を活かした「HEGE(ヘゲ)」というテーブルウェアブランドや「HENGEN(ヘンゲン)」という直営レストランを開業しました。何を仕掛けてくるか見えない会社なので、明確には想像がつかないですね。全く経験がない分野ですが、事業部として伝えたいことの軸は何も変わっていないので、あまり気にしていません。むしろ1年後に全然違うことをしているかもしれない、いや絶対違うことしてますね。そういうのもちょっと楽しみだなと思っています。

40歳を超えて、もう少しゆったりと極めたものや培ってきたものを武器に働きたいなとなんとなく思い描いていたのですが、新しいこと、楽しいことを発見しながら、私ってまだまだ働きたいんだなと思いました(笑)。そうなると、きっと終わりはないですね。(笑)

貴重なお話ありがとうございました。

インタビュー・編集:扇本英樹 (株)Sparks
執筆:梅田梓

RELATED

PAGE TOP